MONTBLANC SPECIAL INTERVIEW by Kiyomi Mikuni オテル・ドゥ・ミクニ シェフ  三國 清三・スペシャルインタビュー

日本を代表するフレンチシェフであり、ヨーロッパをはじめ世界各国を舞台に幅広く活躍されている三國清三シェフ。今回はコシノジュンコ氏が特別にデザインし、モンブランが製作したユニフォームをお召しいただき、料理や経営のこと、料理界の未来のことなど、さまざまなお話を伺いました。インタビューの舞台は、三國シェフが30歳の時にオープンし、今年で30周年を迎える「オテル・ドゥ・ミクニ」。閑静な住宅街にたたずむ一軒家レストランは、一歩足を踏み入れた瞬間から別世界へと誘います。

Special Feature:「レガシー(遺産)」を残すために。未来に向けて、守ることの大切さ。

「オテル・ドゥ・ミクニ」が30年、この場所で愛され続けている理由。

こちらのお店は今年で30周年ということですが、多くのお店が出来ては消えていく中で、長く続く理由はどこにあるのでしょうか。
このお店は30年前から変わっていません。30年前にあったものを、30年後の今もそのまま守っています。オープン当時に雇ったスタッフも10名ほど、ずっと働いてくれています。
進化することは壊すことだと考えがちですが、僕はお店の経営も人材の育成も、守り、残すことを大切にしています。
その思いはオープン当時から抱いていらっしゃったんですか?
僕は30歳でここをオープンさせましたが、その時から40歳になった時はこう、50歳になった時はこんなふうと、自分とスタッフの在り方を考えてきました。ですからお店の環境は30年前と同じですが、中身は逆で、30年を経た現在の最先端をいっています。30年かけて守ってきたもの、進化させてきたもの、その両方がここにはあります。
30年前から「守る」ことを大切されていたのですね。
30年間守り続けて、今やっとその大切さを発信できるようになりました。高度成長期は壊して進化する時代でしたが、現在は守ることが求められています。例えば東京の海には700種類の魚がもどり、神田川には鮎が住めるようになりました。それはみんなが、守ることの大切さに気付いたからなのだと思います。

鍋洗いから、大使館のコック長に。弱冠20歳で650人の中から大抜擢。

では修業時代のお話を少し伺いたいのですが、三國シェフは20歳でスイスの日本大使館の料理長に就任されましたが、
その若さで抜擢されたことへの不安はありませんでしたか?
不安はもちろんありました。でも当時の僕には、選択肢は2つしかありませんでした。故郷の増毛(北海道)に帰るか、スイスに行くか。僕は15歳で料理の道に入り、東京の帝国ホテルには村上さんという神様のような料理人がいることを知りました。そして18歳で津軽海峡をこえて東京へ出て、念願の帝国ホテルに入りました。でも2年間、鍋洗いしかさせてもらえませんでした。それで20歳の誕生日を迎えた8月、今年いっぱいで諦めて、増毛に帰ることを決めたのです。地元で漁師にでもなるつもりでしたそれがその2ヵ月後の10月、料理長だった村上さんに呼ばれて、「650人の中から最も腕のいい料理人を、ジュネーブの大使館のコック長に推薦してくれと言われて、君を推薦した」と言われたのです。
それは突然ですか?事前の打診などはなく?
いきなりでしたので、3秒ぐらい固まりました(笑)。増毛か、スイスか…。一瞬考えて、「行きます」と返事をしました。増毛は北海道でも特に田舎で、札幌に出るだけでも大変なこと。東京に出る時なんかは「みんな悪い人ばっかりで騙されるぞ」「米も食べさせてもらえないらしいぞ」と大反対されました。ですからまさか自分がヨーロッパに行くなんて、全く考えたこともなかったのです。それでも増毛に帰るより、未知の国に飛びこむことを選びました。
そしてヨーロッパで、数々のミシュラン三ツ星店で修業をされるのですね。
村上料理長に「10年後は必ず君たちの時代が来るから、この10年は自己投資して勉強しなさい」と言われたこともあり、無我夢中で修業しました。お店で働きはじめた最初の一ヵ月は野宿をして、月末にお給料がもらえたらアパートを借りて…というのを繰り返して、何軒も渡り歩きました。南フランスはあたたかいので野宿も大丈夫なのですが、寒い地方は空き家に住んだり、友達のところに転がりこんだりしてしのぎました。そして村上料理長に言われたように、美術館に足を運んで、いい料理を食べて…お給料はすべて使い果たしていました(笑)。そしてちょうど10年後に、ここ四ッ谷の店を開業しました。
当時の村上料理長が三國シェフの才能を見抜いたように、三國シェフも素質のある若い人はわかりますか?
ほうきの持ち方を見るだけでも、その子が10年後どうなるかというのはわかります。修業をまじめに10年もやれば、料理は誰でもできるようになるものです。でもお店をやって成功するかどうかは、ほうきの持ち方ひとつですぐわかります。
三國シェフが修業をされていた時代とくらべて、今の若者はいかがですか?
僕らの頃となにも変わりません。当時も先輩たちは「今の若い奴らはダメだ」って言っていましたから。そういうものだと思います。

オリンピックを通過点に未来へ「レガシー」を残していく。

それでは、未来についてのお話を。三國シェフは2020年の東京オリンピック・パラリンピックにも関わっておられますが、
どんな構想をお持ちですか?
5年後、東京には1600人の料理人が必要になります。でも今の日本では、ちゃんとしたプロは100人も集まらない。それはバブル崩壊やリーマンショックなどで経験のある料理人がリストラされ、廃業してしまったことが一因です。おもてなしは、技術とプライドを持ったプロでないとつとまりません。ですからこのオリンピック・パラリンピックを通じて、日本の職人を守ることにつなげていきたいと思っています。
ここでも「守る」ことが大切になってくるんですね。
今度の東京オリンピック・パラリンピックは、「レガシー(遺産)」がテーマ。2020年を通過点に、未来へ受け継いでいくものを残すことを目的としています。僕の恩師である村上料理長は1964年の東京オリンピックの際、開催の5年ほど前から地方の料理人にレシピを送って勉強させていました。そしていざ開催となった際には地方から、約400人もの料理人を東京に集結させました。地方の料理人に活躍の場を作り、そして東京で腕をふるった料理人たちがその経験や知識をそれぞれの地元に持って帰ることで、今度は地方が発展します。オリンピックが、日本全体の料理のレベルを高めるきっかけになったのです。今回は僕もそれに倣おうと思っています。この絶好のチャンスに失われたものを再興し、レガシーを残していくのが使命です。
大切なものを受け継いでいくという意味では、以前から取り組まれている食育に通ずるものがありますか?
2000年から食育をはじめて、第一期生が今年22歳になります。その子たちの子供にも食育を続けて、親子三代で味覚を育てていけたらいいなと思います。子供は非常にピュアですから、いいことを教えればいいことをするし、悪いことを教えれば悪いことをします。子供たちによくするのは、「食は“良”い“人”って書くんだよ」という話。いい食事をすると、いい人になれるんだよと話しています。

料理人として、ユニフォームに求めるもの。

では最後に、今日のユニフォームは、コシノジュンコ氏が三國シェフのために特別にデザインしてくださったものですが、着てみられたご感想は?
料理人はよく動くので、ユニフォームは機能性を一番大切にしています。 その動きやすさに先生ならではのアクセントがあり、非常にすばらしい デザインだと思います。
ユニフォームを着用される際に、大切にされていることは何でしょうか。
清潔であること、クリネスですね。うちのスタッフは仕込みで
1着、営業中に2着と、1日3着ほどユニフォームを着替えます。髪型も長さが決まっています。見た目の美しさももちろん大切ですが、それ以上に「清潔であること」を大切にしています。

弊社でも参考にさせていただきます。今日は本当に、ありがとうございました。 守ることが進化することという三國シェフのお考えは、モンブランのモノ作りにも当てはまります。
私たちも素材メーカーであった当初から培ってきた技術や経験を守りつつ、時代やニーズの変化に対応できる柔軟さを持ち続けることを大切に考えています。

Information

オテル・ドゥ・ミクニ 東京都新宿区若葉1-18 TEL:03-3351-3810 ランチ:12:00~14:30(L.O.) ディナー:18:00~21:30(L.O.) 定休日:日曜日の夜、月曜日 ※休日もインターネットにて、ご予約承っております。 http://www.oui-mikuni.co.jp
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